生まれ、育ち
1992年、8月8日に宮城県の仙台市に伊藤家の長男として生まれました。
(母の実家の近くです)
中学校体育教師の父と、ピアノ教師の母のもと、父の実家の福島県福島市で育ちました。
2歳下の当時はひょうきんな妹、
(今は素敵な女性です。)
4歳下の身体能力高めな弟
(中学生?くらいでiPhoneを分解したり、走り幅跳びで全国大会優勝したりとすごいやつです。あとちょっと生意気な性格。笑)
と一緒に高校卒業まで福島市で過ごしました。
幼稚園時代
いい機会ですので幼稚園時の思い出というか、記憶を振り返ってみます。
よく休みの日に母が公園に連れて行ってくれていて、外遊び・運動が好きな子供でした。
幼稚園は引っ越しの関係で2つの園に行きました。
1つ目の園は仏教色のある幼稚園で、毎朝園の外にある仏像にお祈りをささげていた記憶があります。
(頭がくるくるしてて面白いと思った記憶も。27年前? 意外と覚えている。。)
あとは、園の砂場で「どこまで掘れるんだろう?」とシャベルで深くまで掘って遊んだこと。
結構掘り進めて、見たことのない何かに到達して「おぉ!」となったところで集合がかけられて中断した記憶。
突っかかってきた男の子とケンカしてから、仲良くなった記憶。
先生が若くて優しくて好きだった記憶。
お弁当の時の向かいの子を笑わせたくて、わざとご飯粒を口の周りに付けておどけた記憶。
お弁当の時に友達からポケモンのふりかけの使用済みの袋(いろんなポケモンのイラストが描いてあってゲームはましてやなぜかふりかけも買ってもらえない家庭だった)をめぐんでもらって集めていた記憶。
調べたらまさにこれです。なつい。
あとは、お腹がすきすぎて(?)痛くて、床にのたうち回った記憶。
めっちゃありますね。笑
引っ越し先の園では、
優しいお兄さんになるのが夢と書いていた記憶。
さつまいも堀りで一番大きな芋を掘ったのに、自分が掘った芋はもらえないシステムで泣いた記憶。
おならがよく出て、女の子の前でおならをして恥ずかしかった記憶。
とってきたザリガニが動かなくなって、死んだと思って砂に埋めたら脱皮で動かなくなると後で知って申し訳ない気持ちになった記憶。
こんな感じでしょうか。
意外と覚えていて、このペースで行くと書ききりませんね汗
小学生時代
小学生時代は結構思い出があります。
とにかく毎日のように遅刻していたこと、
(学校が家から5分あればつく近さだったため余裕をかましていた。)
あとはドッジボールにのめりこんだ、ということが大きなことでしょうか。
各学年の思い出
私の学校は2年間同じ担任が持ち上がるシステムでした。
小学1、2年の時は担任がおばあちゃん先生で、掃除のときに「なんでゴミって毎日出るの?」と聞いたら「そういうことに疑問を持つことはえらい!」とほめてもらった記憶があります。
3,4年の担任はエネルギッシュなおじさん先生で、昔ながらのサングラスみたいな茶色っぽい眼鏡をしていた先生でした。
⇩
こんな感じの四角っぽいのです笑
この先生は好きだったのですが、なんかいきなり授業中にぶっ飛ばされた記憶があります。
「カタカタうるせぇ!」と言われた記憶がありますが、自分には自覚がなく、
頭の中が「???」でした。
自分はこの先生の行動のような、理不尽なことはしたくないな、と今でも結構振り返っている記憶です。
あとは、この先生は空手をやっていて、最後のお別れ会的な催しの時に空手の技を披露してくれました。
クラス全員でピロティ(なんか広場みたいな場所)に行き、箱の上に細長い石を置く先生。
(厚みは5cmはある)
そして精神統一し、手を固め、(なんかぐっと掌に力を入れ、先っぽだけ曲げてたような)
「はーっ!」と手刀を振り下ろすと「ぱかーん!」と石は真っ二つに。
マジで驚いた記憶があります。
(今でも見たら普通に驚く)
その石は実家にあります。なんだかいい思い出です。
5,6年の時は若い男の先生で、この先生も好きでした。
私は結構優秀な生徒だったので、
(自分で言う笑 というかただ真面目だったのですが)
先生にいろいろとクラス運営を期待されていた記憶があります。
学校には鼓笛隊があったのですが、楽器の担当を決めるとき、指揮棒を全力で押されました。
鼓笛の花形的存在ですが、女の子がやるイメージがあったのと、小太鼓がやりたいとずっと思っていたので断りました。
しかし小太鼓の練習の時、ちょうどインフルにかかり練習できずに、選考テストに泣きながら参加しました。
(全然叩けなかったので)
担任が見かねてシンバルに推してくれ、選ばれました。
(これは2人しかできないので、先に練習していた人に申し訳ないと感じながら)
そんな感じでしょうか。
あとは毎年リレーの選手だったのはプチ自慢です。笑
ドッジボール
そして。
一番の思い出はドッジボールです。
2年生の時から一緒にソフトボールをやっていた仲の良い友達がドッジボールクラブにも入っていて、私も入りました。
2年生の時の6年生はとっても大きく、大人に見えていました。
投げる球も超速く、憧れでした。
その時代はクラブ生もかなり多く、強い先輩も多く、全国大会に行っていました。2000年ですかね。
(当時はクラブ自体も数が多く、県大会を勝ち進み、東北大会を勝ち進んでからの全国大会だったので、かなりすごいことでした。)
5年生になると力も付き、1軍の5番の背番号をもらい、アタッカーとして試合に出るようにもなりました。
当時の6年生も体が大きく強い子がそろっていて、全国大会に進みました。(2003年)
私が小学生の時の全国大会について検索していたら、懐かしいチーム名がたくさん出てきて時間が溶けてしまいました。
オオハタブレーカーズ、杉小キャイーン、ドラゴンキッズ、METS萩原、サザン’97、ALL-TAISON‘S、Aoiトップガンなどなど、)
6年生ではキャプテンになったのですが、全国大会につながらない県大会で優勝したのが一度ありましたが、全国大会には行けずじまいでした、、、
5年生の時からアタッカーを務めていて投げる回数が多くなっていたのですが、ずっと投げ方が悪く、肘を壊していまして6年生の時はほとんど左投げでした。
力はあったので球は速かったと思うのですが、コントロールがダメダメでしたね。泣
だから今思えば、6年生の時は思いっきりドッジボールを楽しめたわけではなかったんですね(-_-;)
その分、カットマンと言って相手のパス回しを妨害したりする役をしていました。
一応エースアタッカーだったのですがずっと力を発揮できなかったので、それで優勝経験があったのはチームメイトに恵まれていたからですね。
チームで勝った時の喜びはとても大きかったのは今でも覚えています。
楽しかったなぁ。
もう一度思いっきりドッジボールを楽しみたいという思いがあります。
実は今でも壊した右ひじが痛んでタイピングが大変な時があるくらいなのです(-_-;)
これからの生活に支障がありそうなのと、ボールを思いっきり投げられるように手術も考えています。(4%くらい。笑)
小学校の思いではこんな感じでしょうか。
ドッジボールをやった友達とまたドッジボールやりたいなぁ!
(声かけるのもありだな🤔)
中学校時代
中学校時代は私にとってあまり思い出がありません。
上の写真は母親からピアノを習っていたので
(正確に言うと習わされていた?)
合唱コンクールでピアノ伴奏者になったことで合唱が好きになったこと。
そして、休み時間のドッジボール、バスケが楽しかったことくらいでしょうか。
私は小学生時代ソフトボールをしていたのでなんとなく野球部に入り、仲の良かったドッジボールの友達はみんなハンドボールクラブに。
野球部では1年生は草むしりを長期間やらされた記憶があります。
顧問が理不尽に切れるタイプで嫌でした。
そしてドッジボールを一緒にやっていた1つ上の先輩たちがみんなまさかのヤンキー化。
ほんと中学校のヤンキーのほとんどがドッジボール出身者。
謎でした。先生たちを困らせる先輩たち。
野球部は打つことが好きでやっていました。
相変わらず右では投げられず、あきらめて左投げを練習。
キャッチボールでは友達に暴投ばかりで申し訳なかったですね、、
2年生時、先輩も卒業するときになって「自分以外キャプテンやる人いなくないか??」と思い、申し出てキャプテンをすることに。
そして3年生になったかくらいの頃、野球部同学年の1部のメンバーから無視をされ始めました。
理由としてはマジでわからなくて、悶々とした日々を過ごしましたね。
リーダー格の子を筆頭に4人くらいのグループからなる子たちに無視されました。
小学生時代から一緒に遊んでいた子からも無視され、マジで意味不明でした。
同じグループの小学生時代から遊んでいた子の一人は普通に話していたのですが、その子に理由を聞くと、
「給食で伊藤がたくさんもらってきた『ひなあられ』をリーダー格の子に配らなかったから」
ということを言われた気がします。
ちっちゃいですね。それでも純粋な伊藤少年はひどくダメージを受けました。
おそらく嫉妬的なものもあったのだと思いますがよくわからずしまいです。
私には人に嫌がらせをする、という思考回路がないので、本当に理解に苦しみました。
親とかにも話したくなかったですしね。
この時から口数が少なくなった気がします。もともと多くはなかったと思いますが。
この話は教員になってからも子供たちに定期的にしていて、
「本当にひどい、理解できない人もいるということ、いじめを受けたときは一人で抱え込まず、誰かに相談してほしい」
ということを伝えられるようになった経験として受け止めています。
うん、それにしても人の気持ちを考えず、人を傷つける人は地獄に落ちればいいと思います。
おっとっと、ブラック伊藤が出てしまいました。
あとは勉強のことについても語っておきたいです。
私は小~中学校時代、勉強は好きでも嫌いでもなく、授業はちゃんと受けていました。
中学ではテストで順位が出るようになり、入学後初めてのテストは200何人中35位だったのを今でも覚えています。
2年か3年の頃、部活は違いますが優秀なテニス部の友達がいてその子とテストの点数を競っていました。
基本的にテスト前の3日間ほど、一生懸命テスト範囲の勉強をガーっとやるわけですが、問題集をやればやるほど点数が良くなることがわかってから面白くなりましたね。
一番やる気が入った時、全体で11位まで行きました。その時は嬉しかったです。
クラスに相澤君、というめっちゃ頭のいい、勉強でわからないところをたまに教えてもらう友達がいたのですが、その子には負けました。
その時に自分はやればまぁいける、と思いました。
全然勉強しなかったテストの時もあり、最低は50番近くまで落ちた記憶があります汗
中学時代の話はこれくらいにしましょう。
高校時代
高校時代は部活一色でした。
中学校まではまぁまぁ勉強していて、当時偏差値61くらいの福島東高校というところに入学したのですが、それからは勉強の方は下降の一途をたどっていきました、、、
(滑り止め、という概念がなぜか受け入れられず、この高校一本に絞って受けてました。)
それもそのはずで、授業中はほとんど寝ていて勉強に集中できなかったということがありますね。
今振り返ってもこれは謎で、日中眠くて授業を受けようと思ってもすぐに眠りに落ちていった記憶があります。
勉強することに意味を見出せなかったんでしょうね。
高校時代の思い出はほぼ部活なのですが、トピック化するとしたらこうなります。
①「遠征試合遅刻で部活辞める一歩前」事件
②最後の大会付近で調子を落としまったが、、、
③大学のことなど全く考えていなかった自分
③から話しましょう。
③大学のことなど全く考えていなかった自分
今にしか生きておらず、未来について考えることが嫌だった私は大学のことなど全く考えていないいわゆる「おバカ高校生」でした。
前述のとおり、高校の授業ではほとんどを寝て過ごした私は勉強内容が全く頭に入っておらず、常に赤点があったような記憶があります。
大学入試の仕組みなども頭に入れたくなくて、ひたすらに逃げていたというか、はい、現実逃避していましたね。
なんでそんなの受けねばならんのだ的な感じです。笑 何様だって感じですがそんな感じなことを考えていました。どーしようもないです。
結局、受験の仕組みなどは特に理解せず、ひたすら勉強するようになりました。
センター直前半年前くらいは1日10時間ほど勉強するようになりました。
結果、模擬試験や過去問ではまぁまぁな点数を取れるようになったのですが、(100点/200点とかだったのが150点/200点とかになったきてた)
本番では爆死して結局母親が申し込んでてくれていた大学に入学します。
この時の私は、(というかまだ続くけど)自分の人生に意図などなくて、流されるように生きていました。何も考えていませんでした。
②最後の大会付近で調子を落としまくったが、、、
部活は野球部で、仲間のおかげもあって楽しく続けていました。
運動は得意だったしソフトボールも小学生の時にやっていたので、その延長で中学から始めた野球。
単純に投げる、打つ、走る、という動作も好きだから続けていました。
左で投げることも3、4年経つとだんだん慣れてきていて、遠投で70Mくらい(高校野球部員の平均くらい?)は投げられるようになっていました。
左ということもあり、ブルペン(ピッチャーの練習場)で投げさせてもらっていました。
ほかの野手とは違うことをやるのでちょっとした特別感がありましたね。
ただ、ちゃんと野球を考えてやっていなかった私は、根本的な「コントロール」が一向に良くならず、いつも球を受けてくれる同級生に迷惑をかけていました。
ちゃんとストライクゾーンに行くのが5球に1球あるかな?くらい。球を投げることは好きでしたが全然ダメでした。でもただ投げているだけで、「なんでストライクゾーンに投げられないんだろう??」と、それ以上に考えることができない高校生でした。ピッチャーの友達に聞くでもなく、キャッチャーの友達に聞くでもなく、、、
今思うともったいない時間を過ごしたなぁと思います。人に聞いたり、積極的に学べと言いたいですね。
おっと。話が脱線していました。「最後の大会付近で調子を落としまくる」の話でしたね。
結局チーム内の紅白戦でピッチャーをやったくらいで、あとはファースト、一塁手に落ち着きます。
打つのも好きだった私は先輩がいなくなってから試合に出られるようになり、結構ヒットを打ちました。
それでレギュラーになっていたのですが、監督のサインを見たり、考えて動くのが苦手で、、、
単純に打つ、走るしかできない選手でした💦 運動能力だけで野球をやっていました。
ファーストからセカンドやホームに投げるのも苦手で、しょっちゅう暴投していました。ピッチャーからの牽制球を返球するのもたまに。
ファーストからのセカンドゲッツーとかマジ恐怖でした。みんなごめん。
取柄として、打つことだけはまぁまぁできていて、打順は3番に定着していました。
自分でいうのもあれですが、野球で打順が3番というのは打てて走れる選手のポジションなわけです。
それで、ついに本題。3年最後の夏の大会直前にまったく打てなくなったのです。
大会中も、打順は7番に。なんだかピッチャーの投げる球がよく見えなくなっていました。今思うと、それまで何も考えずに打っていたツケが回ってきていたように思います。
私は全然打てていませんでしたが、チームメイトの頑張りもあり、1回戦、2回戦を勝ち抜きました。
そして3試合目。夏の最後の大会のため、全校生徒が応援に来てくれました。
全校応援となっても依然、球がよく見えていない私はだめだめでした。3塁ともう1人ランナーがいるチャンスで打順が回ってきて、監督からのサインは「スクイズ」。
案の定そのスクイズもファールなどで失敗し、2ストライク。追い込まれました。バントすらできない。そりゃそうです。球がよく見えてないんだから。これは野球をやっていた人からすると絶望の状況だと思います。監督はもう打てのサイン。
そして奇跡が起きます。最後の球はおそらく真ん中に来ました。相手投手の失投です。久しぶりにバットの芯を食った感覚があり、打球はセンターの頭を越えました。まさかの3塁打です。この時はマジでうれしかった。やっと打てたと。多分、長らく長打は打っていなかった気がします。この瞬間が上に貼っている写真です。
その試合は2年生ピッチャーが頑張り、完封試合。3-0で勝ちました。
そして次は準々決勝。この日も全校応援。この日も打ちました。もはや自分で言いますが全校応援の伊藤です。調べたらその試合の詳細もネットに残っていて、4打数3安打で打っていました。イタチの最後っ屁ですね。第1打席で2塁打を打ったのを覚えています。
サイトも見つけまして、せっかくなので載せておきます。2010年7月ですね。
結局この試合は負けてしまいました。相手が強かったです。打ってくる感じしかしませんでした。
負けてしまいましたが、最後に打てたからまぁいいか、と思っていました。チームメンバーとしてはよくないですが😅
高校野球最後の夏はベスト8で幕を閉じました。このときに思ったのは「全校応援ありがとう」でした。今でも野球部の友達に会うとこの時の話をされます。
高校最後の夏、全然打てなくなったけど最後の最後だけ打てた、という話でした。
①「遠征試合遅刻で部活辞める一歩前」事件
これは思い出したくないです。だから圧倒的1位の思い出です。
私は朝が苦手です。野球部は強制ではないですが、朝練をしていました。たぶん私は一度も参加していません。他のメンバーは結構していたのかなと思いますが、分かりません。笑 小学生時代と同様、ほぼ毎日遅刻でした。
そんな高校生活を送っていた2年生のある時、先輩方と一緒に遠征試合で泊まりで横浜?かどこかに行くということがありました。
私はそんな大事な機会に、まさかの寝坊。(今までのことを考えると案の定、という感じですが泣)
急いでチームメイト、監督に電話をかけましたが既にもう出たところだと。
翌日、帰ってきた監督と先輩方に謝りに行きました。
当時、先輩とはほとんどコミュニケーションをとっておらずでした。その原因は恐怖で後輩をコントロールしていたことにあります。(という言い訳ですが)
当時の野球部では、1年生は2年生が徹底的に恐怖でいうことを聞かせる、という感じで統率を取っていました。
先輩が毎日の練習後に1年生を集め、「おいお前らなってねえぞ。」的な感じで指導するのです。
私はその時間が非常に嫌いでした。そして先輩方も嫌いになりました。もともとコミュニケーションを積極的に取らないタイプですが、本当に先輩とは話をしませんでした。(数人としか話しませんでした)
コミュ力のある同級生は先輩と打ち解けていました時期だったと思いますが、私はそんなことなく。
そんな関係の先輩方に遅刻で大目玉を食らった後輩。高校時代、運動部に所属していた方であれば、私の苦痛具合が手に取るようにわかるのではないでしょうか。
謝った先輩が威圧してくるのも苦痛でした。(こちらが悪いので、そりゃそうするでしょうが。)
その謝った日は私が遅刻したことで、連帯責任ということでチーム全員がペナルティの筋トレをしました。
先輩たちとの関係が自分の中で終了して、すんごく居場所が悪くなりましたね。部活を辞めようと思いました。
その日の帰り道は川沿いで自転車を止めて、誰もいないときに大声出してストレス発散してました。笑
もう、自分の朝が苦手なことは変えられないものだと信じて疑っていませんでしたね。
(今ではそこまででもなくなっています。ちゃんと教員時代も行けてたし。何回か遅刻したけど。笑)
辞めようと思っていることを同級生たちに話すと「大丈夫だよ」と声をかけてくれました。
みんな、あの時はどうしようもない伊藤に優しくしてくれてありがとう。泣
おれ、野球続けててよかったよ。
今でも同じクラスだった野球部メンバーとは年末年始とかに福島に帰った時には会います。
今これを書いているのが深夜1時とかなのですが、
(深夜に何を書いているのだ)
一人で盛り上がっちゃって仲よくさせてもらっている当時同じクラスだった野球部LINEグループにメッセージ送っちゃいました。
(一人はテニス部。笑)
高校時代はこんな感じです。ほぼ野球のことのみですね。
大学時代
大学はセンター試験で失敗し国立大学に落ち、滑り止めの私立大学に行きました。
群馬、東京などにある「東京福祉大学」というところです。
ここでお話しすることは、
①ドッジボールサークルが楽しみだった1,2年生
②妻との出会い
③依然として何にも考えていない大学生だった
くらいでしょうか。
①ドッジボールサークルが楽しみだった1,2年生
大学に入学して間もない頃。隣のクラスの女の子がドッジボールサークルに入ったということでその存在を知り、「ドッジボール!? それは入らねば!」ということで速攻で入った。
そのサークルは週に1,2度大学の体育館でバスケやドッジボールなどの球技をするサークルだった。
(いや、8割バスケだったが)
それでも緩く運動ができて非常に楽しく、それだけを楽しみに大学に行っていた。
授業は色々とあってとりあえず授業には出席していたが特に一生懸命学ぶ生徒ではなかったと思う。
3年になると英語の授業とサークルの時間がかぶり、サークルに行けなくなり、マジで「大学に行く意味がない、、」と思った記憶があります。
勉強しに大学に行っているのに、ですよね。
野球部にも入っていたのでそちらは行っていましたが、群馬で風も強く、また野球部を辞めたくなりました。
ドッジボールサークルでは友達がたくさんできました。今ではほとんど会わなくなっちゃいましたが。おかげで楽しい大学時代を過ごすことができました。
②妻との出会い
そして、この大学で妻と出会いました。
初めてドッジボールサークルに行った時に彼女は先輩や友達と話していて、元気でいつも楽しそうな子、という印象でした。
ドッジボールサークルの運動も楽しみでしたが、彼女と会える、というのも楽しみでしたね。
楽しく話はする中ではありましたが、大学在学中は付き合うことなどはなく、、、結局くっついたのは社会人になってからでした。
自分から大学時代に声をかけていれば、、とは何度も思いました。
彼女は明るく、陽キャな部類でどんな人とも仲良くなっちゃうタイプ。私は陰キャな素質ありありで誘ったりすることができませんでした。今あの時の自分と話せるのであれば「誘えや!」と言います。笑
まぁビビっていたんでしょうね。それまで恋愛経験がなかったので、今思えば、その年齢年齢ごとに恋愛することって大事なんだなと思います。
妻との出会いはそんな感じです。
③依然として何にも考えていない大学生だった
高校生の時と同様に、未来や自分のことについて何も考えていない、アホウな大学生でした。
今思えば、もっとできることあっただろうと。
アパートで1人で、また友達とゲームしていることが多かったですね。
パワプロくん、ヤンガスの冒険、ワンピースのアンリミテッドクルーズというゲームにはまって結構な時間やっていた記憶があります。
あとパズドラも流行っている時代でしたね。友達とガチャを引いて盛り上がったりしていました。
友達とだべるのもそれなりに楽しかったですが、あまりに密度の薄い時間を過ごしたなと今は感じます。自分から動くこともほとんどなく、世界が狭かったなと。一人暮らしだったので、それは解放感があって楽しかったし、初めは「自分って一人でも生活できるんだ!感動!」とかかなりレベルの低いことを思ったりしましたが、それ以上でも以下でもない大学時代を過ごしました。今考えてもできること他にたくさんあったなと思います。
3年生になってくると、就職か、教員になるか、などと周りが話し始めます。
私がいたのは教育学部だったので、先生になるための勉強をなんとなく始めました。
勉強はまぁまぁ行けたのですが、面接がダメダメだったと思います。
なんせ何にも考えていなかったのですから。
先生を目指した理由は、父親が中学校教員、じいばあが小学校の先生ということがあるのと、小学生時代がとても楽しかったこと、教えるのが好きで、子どもが好き、ということくらいでしょうか。
面接で全然話せなくて、初めて、自分と向き合った気がします。
iPhoneに自分の教育に対する考えを書いていました。
そして4年の夏に試験。
運よく、合格。アパートのトイレにて、結果発表を携帯で見て、「うぉー!!」と叫んだ記憶があります。笑
一緒にグループ面接を受けた友達曰く、「女性面接官が伊藤を見て目がハートだったよ」とのことで、顔採用だったようですが。笑
うかりゃ何でもいいのです。
そんなこんなで晴れて先生になることになった私ですが、今思うのは、もっといろいろと自分について考える人間になれなかったのか、ということです。
ずっとなんとなく生きてきた感じ。学生時代に自分を持っていたり、やりたいことがある人はすごいなぁと思っていました。
自分の中の世界が狭かったんでしょうね。行動しない、積極性のなさは本当に悪だと思います。
だからこそ、昔の自分や今の子どもたちには「自分の興味のあることにどんどんチャレンジして、体験しよう。考えよう。人間としてレベルアップしよう。」ということを言いたいです。
そうすることで世界も広がり、生きることが楽しくなり、積極性も生まれるからです。
先生になることが決まってから、埼玉県熊谷市の小学校で先生体験として数週間働くことになりました。
働くと言っても授業を後ろから見る程度です。
結構アパートから距離があったので、毎朝早起きし、原付バイクをかっ飛ばし、自転車と電車を乗り継ぎ、学校に通っていました。
(今思うと大学時代で一番頑張ってたと思う。早起きがあっただけで。笑)
ここで子供と触れ合うことの楽しさを感じましたね。授業はしていなかったのでただ子供と遊んでいました。先生のいいところしか味わっていませんでした。汗
なにも知らない大学生で、今思うとやばいやつだったのではと思いますが、校長先生、教頭先生にとてもよくしてもらいました。
(校長先生には「いつも同じネクタイだから数本あげるよ。」と言ってネクタイを3,4本もらいました。ありがとうございました!)
すぐ近くに河川敷があり、桜がきれいな小学校なんです。今も家族で花見しに行ったりするのですが、先生体験した時のことを思い出します。
さぁ、大学時代も終わり。
次は教員時代に入ります。
教員時代
これから書きます。